月と太陽

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リリザの門

5.

どのくらい時間が経ったか、感情の波が去り抜け殻のような気分で起き上がると、王子がぽつりと言った。
「落ち着いたか。」

力なく、僕は頷いた。王子と目を合わせる気力が無かった。涙が乾いたあとのまぶたがまだ熱い。王子の声は静かだった。女々しい、とか、男の癖に情けない、とかこれまで幾度となく聞かされてきたお決まりの文句すら吐かず、兄が弟を諭すような口調で僕に話しかけてくる。情けないのを通り越して滑稽な物悲しさを覚えた。

「一つだけ、訊かせろ。お前、俺から逃げていただろ。」
「……。」
僕の答えを聞く前に彼は問いかける。
「何故だ。」

僕は目を伏せ沈黙する。脳裏にこれまでの出来事が浮かんでは消えた。

それはムーンブルクが陥落する前日のことだ。城内に怪文書が出回った。匿名の人物によりあちこちにばらまかれたその文書は、僕が本当は男性でなく女性であること-----従って現行法下では王位継承権を保有しないこと----を白日の下に曝さんとするものだった。
当然ながら、秘密を知る数少ない側近の顔は蒼白になった。

緊急の閣議が開かれ、城の従者の中には虚実ないまぜの「告白」をする者、それを否定する者、はたまたごく少数ではあるが、女子の王位継承を禁じた現行法の改正を主張する者との三者に分裂した。更に父の弟----すなわち僕の叔父----がこれに乗じて王位転覆を図っているとの噂も流れ、混乱は頂点に達していた。
そこにムーンブルクの悲劇を告げる早馬が来たのだった。

不幸中の幸い、というのはあまりにも不謹慎なのだが、とにかくそれで城は一瞬僕の問題を忘れた。

だが、時は稼げても、いずれ大臣達は僕の身体を調べようとするだろう。乳母は口を割らされるだろう。法改正派も頑張っているようだが、ハーゴンの脅威に国中が脅えているこの非常時に冷静な議論など無理だろう。座学とはいえ、帝王学を学んだ身なのでそのくらいわかる。

そして、事は僕個人の処遇には留まらないだろう。国全体を私欲のために騙した者として、父の王位は危うくなる。そうなれば父の弟達は後継の座を巡って政争を始めるだろうし、最悪の場合、ロト系の血統からすれば「宗家」にあたるローレシア王家の領土的野心を刺激することすらありえる。

僕はもう潮時だと悟った。何かが、限界に来ていると感じたのだ。

父に置き手紙をして旅立った。王子はロトの血に目覚め、冒険の旅に出たのだと言えるように。
僕の腕ではそれどころか、魔物に食われて死ぬかもしれないのだから、無謀な行為だった。
だが、生者としてであれ、死者としてであれ、僕が二度と戻らなければ、真実は闇の中。少なくとも、誰も父を咎めまい。この世界はまだ、英雄の伝説を信じている。たとえ夢半ばに倒れた者であっても、美談として語られる。
父はどのみち世継ぎを失うが、不名誉だけは免れるだろう。権威が揺るがなければ、無駄な政争は避けられる。運が良ければ、妹の王位継承のため法改正をする時間すら稼げるかもしれない。

そして僕だって、衣服を剥がれ、重臣達の前で曝しものになるよりは、せめて王子のまま姿を消したかった。

ハーゴンを倒す気等毛頭無く、腕は頼りなく、まるで自殺のような旅だったが、それでも一つだけ目的があった。ムーンブルクにどうしても行きたかったのだ。

そこで、何をしたいとか、明確なものはなかった。
ただ、そこに行きたかった。
あの王女を育んだ場所を、見てみたかった。

願いを達した後のことはほとんど何も決めていなかった。形ばかりとはいえ高位神官の資格を持っていたので、適当な修道院にでも身を隠してしまえればとぼんやり考えた程度だった。神の家は治外法権。特にムーンブルクの各地に散らばるそれは強い独立自治の気風で知られていたので、もしも運良くたどり着けるのなら、最低限の人生は保証されるはずだった。

父も僕の心を察したか、己の身がかわいかったのか、いずれにせよ僕の望む形で協力してくれたようだ。
普通ならありそうな大掛かりな捜索隊が送られていない。密偵の類いも比較的よく統制されている。国内の都市、関所全てが「非常事態」を理由に厳戒態勢に入り、高位の神官籍、または王侯貴族の身分証明を持たないものにとって移動は非常に厳しい状況になった。これではいかに叔父とはいえ、父の目から隠れて配下の者を送るのは困難だろう。隣国の王子、アベルまで動員して僕を捜させたことからも、それは伺えた。そして父はといえばアベルに偽の情報を吹き込んで、あちこち遠回りさせていたわけだ。僕が彼に見つからないように。

ローラの門は父王のもの。通行許可証無しにアベル一人では通れない。僕が道に迷わず順調にローラの門についていれば、今頃は完全に逃げ仰せていただろう。

でも、アベルに捕えられてしまった。
彼は僕を連れ帰るだろう。
これでもう、終わりなのだろうか。

終わり…本当に?

「…答えたくないのか。」
床の一点を凝視したまま動かない僕をみてアベルは溜息をつき、窓の外へと視線を移した。
そのときだ。
ふと、風が花の香りを運んできたような気がした。窓から廊下へと吹き抜けながら。

あ、

考えるより先に、身体が動いた。
風に誘われたように。

「あっ、何っ?!」
一瞬反応の遅れた彼の脇をすり抜け、廊下へと僕は走り出た。とっさに、戸口付近に並べてあった安物の調度品や家具をいくつかなぎ倒しながら。
花瓶の割れる音に少し良心が傷んだが、振り返らず駆け抜ける。割れた破片や倒れた椅子に阻まれて出遅れ、王子は地団駄を踏む。
「ま、待てっ、卑怯だぞ!!勝負はもう…」

勝負?そんなの、知るものか。
お前がしいたルールだ。僕のじゃない。
いつだって、そう。

もう、
たくさんだ。

行き止まりにはぽっかりと開いた窓。黒い夜空。
「馬鹿、よせ!」
何のためらいも無く木の枠に手をかけ、僕は飛んだ。





続く


作者後記
サマル、逃げました。
最初この話を書いたとき、実は全然そうするつもりなくて。サマの涙にほだされたマッチョ野郎ロレ王子が「チッ、仕方ねーな。一緒に連れてってやるぜ」なんて言い出すことになってました。
だけど、書いてくうちになんかそれもやだなー、と感じて悩んでたら、あるとき、カチカチと映像が浮かび、サマが死にものぐるいで逃げ出して、隣の家の屋根に飛び移るのが見えたのでした。唐突だなー、と思ったけど、気に入ったのでそれを採用することに。
とはいえ、その映像がうまいこと文章にならないし、それにこの回はサマの旅の目的を説明しなきゃだしで、字数がやたら多くなるしで、時間かかりました。
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