月と太陽

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リリザの門

4.

王子には一分の隙もない。

「くそ!」
ついに、しびれを切らして僕は勢い良く踏み込んだ。鈍い手応えとともに、短剣が何かをかする。 重傷を負わせるつもりではなく、相手が怯んだ隙に逃げるつもりだった。
だがその刹那、相手は僕に足払いをかけていた。しまった、と思ったときには遅かった。

転倒し、あっという間に背中から組み伏せられ、腕をねじ上げられる。渾身の力を入れてもがいても自由にならない。しかもアベルは、まだ剣さえ抜いていないのだ。圧倒的な戦闘能力の差。

「悪いが、話にならねえな。」
送り届けてやるからサマルトリアに帰れ、と頭の上から声が降ってきた。
「いやだ。」
一瞬の躊躇も無く僕は答えた。それがせめてもの抵抗。肺が圧迫されて苦しく、声がかすれた。
「絶対に…帰らないっ…。」

ふと、王子が僕の腕を解き、しびれていた腕にゆっくりと血が通うのを感じた。だが、僕の背中を押さえつける膝をどけてはくれない。

「何故そこまでこだわるんだ。」
先ほどまでの不遜な態度から一転し、彼の声に戸惑いが宿る。
「今のでわかったはずだ。こんな腕じゃお前、死ぬぞ。ローラの門につく前にな。それとも、サマルトリアの世継ぎはそんなこともわからんほどの大馬鹿なのか。」

何故かって?
ああ、それがここで言えるのならば。
父の、乳母の、侍女の、城に置いてきたいろいろな人の顔が浮かんだ。

「ムーンブルクに行きたいんだ。」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。本当の理由ではなかった。だが、嘘でもない。
「どうしても、確かめたい。僕の目で…ナナ…王女のことを。」

王子は虚をつかれたような顔をし、僕を見た。
「…無理だ。生きているはずがない。ムーンブルクでは国王や精鋭の騎士すら命を落としたんだぞ。」
即座にそう言い捨てて、苦笑した。僕を、情に流された馬鹿者と思ったのだろう。女のために己の力量もわきまえず無謀な行動に出る愚か者と。だが、それでいい。――「本当の事」を知られるよりは。

だから僕も言い切った。
「僕は、信じている。彼女は生きている。」

不意に美しい少女の面差しが浮かび、遠い日の記憶がよみがえった。紫色の髪の王女。赤い瞳で僕を見ていた。そうだ、彼女が死ぬはずは無いー。
何かが、僕の中で弾ける。唐突な感情の氾濫。
涙が溢れた。

あれはいつだったか、ロト祭に活気づくアレフガルドで迎えた春の午後。「ロトの血をひく王族の男子」を集めた午前試合があった。そろそろ体格で遅れをとり始めていた僕はさっさと敗退し、人の輪から離れてぼんやりと試合を眺めていた。

そのときだ。肩をやさしくたたく手があった。振り向くと、同じくらいの年の美しい少女が一人立っていた。
一瞬、誰だかわからなかった。ルビーのような瞳と午後の陽光を受けて紫色に輝く不思議な色の髪に、ムーンブルクのナナ王女だと気づいた。公式の場で一度、二度、堅苦しい挨拶をした程度の面識しか無かったのだ。

これ、あなたに。

そういって、彼女は僕に何かを差し出した。華奢な手に、黄色い可憐な野の花が揺れていた。
わけがわからず呆然としたまま受け取ると、きれい、とても似合うわ、と言って彼女は屈託なく微笑んだ。そしてそのまま、侍女の呼ぶ方へときびすを返し、走り去ってしまった。

サマルトリアでもムーンブルクでも、花は女性と死者に送られる。
男から女へ、生者から死者へと。

彼女は王女、僕は「王子」。
どうして彼女があの花をくれたのか、僕にはわからなかった。今でもわからない。
王女は何も説明せず、微笑んで行ってしまった。

何も言わず、何も問わず。

彼女が僕の秘密を知っていたはずは無い(仮にそうだとしたら一大事だ)。
だけど、花を持った僕を見て当たり前のように微笑んだ彼女に、戸惑いながらも心が震えた。

「女性のように花を贈られた」ことが嬉しかったわけではない。もしも同年代の少年に同じ事をされたら、即座に悪い冗談か侮辱と感じただろう。
でも、少女から花を受け取るということは、それと全く別の、甘美な儚い感情を僕にもたらした。巧くは言えないが、生まれて初めて僕の何かを受け入れてくれる人に会ったような、そんな気持ち。
嬉しかった。たとえそれが、美しい錯覚だったとしても。

だから、もう一度どうしても会いたかった。
名も無い花の柔らかな香りをわすれることが出来なかったから。一言、あの日の礼を言いたかったから。

……でも、現実はそれどころじゃなかった。
海峡すら超えられずに隣国の王子に組み伏せられ、結局、城に連れ戻されようとしている。

空しく、僕は嗤った。
無力感に泣いた。
涙が頬を伝い、伏した木の床からは湿った埃の匂いがした。

しょうがねえな、とつぶやく声がして、背中にのしかかっていた王子の体重から解放された。
それでも床に這いつくばったまま僕は動けなかった。




続く


作者後記
ナナ姫とお花のエピソードで書きたかったのは、「自分が日常、足先から頭のてっぺん迄どっぷりとつからされている息苦しい枠組み、価値観から逃れ、別の世界を生きる可能性を感じる一瞬」みたいなこと。そういうことを感じるのは、たいてい、いつも見慣れているものが少しズレて提示されるときですよね。
…というわけで、「男が女に花を贈る」世界で、ナナからランドに花を贈らせてみました。ランドは肉体的には女性ですから、これは単なる男女の役割の逆転というのでもありません。
ところで、字数、1500字程度を目指してるのですが、またもや失敗。
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